時代の風~第36回 ポストコロナの価値観 「競争信仰」転換に期待(2020年5月17日)
私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。
ポストコロナの価値観 「競争信仰」転換に期待
新型コロナウイルスの感染拡大で、世界はこれまでにない変化を強いられた。都市というのは、大勢の人々が集まって、さまざまな活動を行う場所である。ところが、飛沫(ひまつ)感染するウイルスに対抗するために人々が集まれないとなると、移動は制限され、多くの活動ができなくなった。
この状況の中で、都市や職場のあり方を考え直したり、テレビ会議など遠隔情報技術の利点と限界の双方について実感したりと、みなそれぞれ思うところ多いのではないだろうか。
都市の閉鎖や自粛要請の結果、多くの場所が静かになり、大気汚染なども減少した。ひどいスモッグだったインドや中国の都市で、建物がきれいに見えるようになった写真などを見ると、なんとなくほっとする。
今回のコロナ禍の経験は、世界中の人々が現代の文明を考え直すよい機会になったと思う。ウイルス感染拡大もいずれ終わるだろうが、また活動が再開されるようになれば、もとの木阿弥(もくあみ)で、以前と同じような生活になるのだろうか? 私たちはそうなることを望んでいるのだろうか?
経済活動を活性化させるには、もと通りの再開が望まれるのかもしれない。それも選択肢の一つだろう。しかし、選択肢はそれだけではないはずだ。
私が論じたいことは二つある。一つは、コロナ禍を機に、人間活動が地球環境に与えている負荷について、もっと深く考えたいということだ。活動停止で大気がきれいになった町の状況は、1960年代、70年代からその後の日本で起こったことを思い起こさせる。
では、今の先進国で普及しているさまざまなネット技術はどうか? 例えば、スマートフォンなどで個人が好きなときに好きなだけ動画を見られる技術。今、世界中で6億人以上がそんなサービスを利用しているという。このような技術がどれほどの環境負荷をもたらしているのかを測定する研究が行われている。
そんな研究の一つによると、オンラインビデオの視聴によって排出される二酸化炭素は、全世界の排出量の1%に当たるという。航空機の運用による排出が全体の2.5%なので、これは相当な量だ。テレビ番組を配信するにはそれなりのエネルギーが必要だが、個人宛てのビデオ送信は、それぞれの人々に個別に送り出すので、さらにエネルギーが必要となる。
国連による持続可能な社会作り目標(SDGs)は、日本でも広く紹介され、いまや多くの人々が、そのバッジをつけている。しかし、本当に環境負荷を減らすために、どれほどの努力をせねばならないか、それを考えるためのデータはどこにあるのか? ネットを含む新たなIT社会は、どれほど環境負荷を少なくできるのか? その探求の態度において、欧州に比べて日本の状況は、かなりお寒いものだと私は感じる。
私が論じたいもう一つの点は、そもそも「競争に基づく発展」という価値観についてである。
私たちは、近代の数世紀にわたって、他人に打ち勝つ、他社に打ち勝つ、他国に打ち勝つ、という目標のもと、より多くの富を生み出そうとしてきた。競争は発展の源泉であり、競争に勝つためにはイノベーションを創成せねばならない。所得は上がり、会社の利潤は上がり、GDP(国内総生産)は上がり続けねばならない。この競争信仰に基づく人間活動が、多大な環境負荷を生み出してきたのは事実。
それだけではない。この競争信仰は、競争社会に住む人々の多くに、精神的ストレスと不幸と矛盾をもたらしてきた。
しかし、こうして永遠に右肩上がりを実行することは不可能なのだ。一つしかない地球の上で、永遠に富の増加を求めることは不可能である。そして、経済的競争こそが発展の原動力という考えも、たかだかここ数世紀に蔓延(まんえん)した考えに過ぎない。一生懸命働いて、よりよい生活をめざすという理想も、この数世紀のものでしかない。
人工知能がさらに発展し、人間の仕事の多くの部分が機械で代替できるようになる社会が提言されている。そんな社会は、これまでの数世紀の社会状況とはまったく違うはずだ。そうであれば、そこでは、これまでの競争信仰に代わるまったく新たな価値観が出現することを期待したい。
( 2020 年5月17日)