時代の風~第40回 民主主義の一丁目一番地 ~学術会議任命拒否~(2020年11月1日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

民主主義の一丁目一番地 ~学術会議任命拒否~

日本学術会議が推薦した会員候補者105人のうち6人が任命されなかった。

私が一番気に入らないのは、理由の説明がないことである。「推薦された人を全員任命するというものではない」「任命するのは首相である」というのは、法律上そうであるかもしれない。しかし、これまでの学術会議法の解釈はそうではなかったと思うので、なぜ変えたのか説明が必要だ。そして、特定の6人を任命しなかった理由を説明すべきである。そうしないと、この国の政治の体制は、国民からも海外からも信用されなくなるだろうに。

「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保するため」というのでは、なぜ特定の6人が任命されなかったのかはわからない。しかし、ちまたでうわさされているように、現政府の考え方と異なる意見を表明している人たちだということが任命拒否の理由なのであれば、これは、学問の自由というよりも先に、民主主義の根幹に関わる問題だ。

その後、日本学術会議という組織そのものの問題点などが指摘され、議論が行われているが、それと、今回の任命拒否とは問題が別だ。イソップ物語のキッネが、手に入れられなかったプドウを「あれは酸っぱいからそもそも欲しくなかったんだ」と自分に言い聞かせるのと同じ理屈である。

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それにしても、異なる意見を持つ人たちを排除しようとしているのだとすれば、なぜ、ダイバーシティーとインクルージョンという理念が掲げられるのか、どうしたらイノベーション創出ができるのか、理解されているのだろうか?

ダイバーシティーとインクルージョンとは、組織や会議体の中に多様な人々が含まれ、異なる意見を戦わせることで、なるべく多くの人々が納得する答えを見いだそうとすることだ。

国籍や性別、年齢、性的指向、特定の病気や障害のあるなしなど、世の中にはいろいろ異なる人々が暮らしている。その人たちは、それぞれ異なる状況に置かれているので、同じ事柄についても意見も感想も異なる。だから、なるべく多様な人々の意見を聞き、最大公約数を見つけるようにしようというのが、ダイバーシティーとインクルージョンの考えだ。

たとえ国籍や性別が同じだとしても、同じ意見を持つとは限らない。個人の考えていることはそれぞれ違ぅ。意見の異なる人たちが集まれば、話は複雑になるし、結論に至るまでの労力は大きくなる。ダイバーシティーとインクルージョンには、それなりのコストがかかる。それでも、意見も聞かれず、顧みられることもない、という人々をなるべく少なくするためには、そのようなコストを負うべきだ、と考えるからダイバーシティーとインクルージョンが大切なのだ。意見が異なる人は排除しようというのは、正反対の考えである。

イノベーション創出も、みんなが同じことを考えているのでは生まれてこない。科学や技術の発展は、これまでの常識を疑い、問題に対して異なるアプローチで挑戦し、異なる仮説を考える人々によって成されるのである。つまり、懐疑主義と批判精神である。

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学者とは、懐疑主義と批判精神が性格の核心にないとやっていけない職業だ。それらなしに唯々諾々とこれまでの研究結果を受け入れ、それらを継承するだけで学者を続けていくこともできなくはないが、そういう学者は、学者仲間からは評価されない。

人権を大切にする法律も奴隷制の廃止も、女性参政権も、進化の理論も量子力学も、それらを認めない既存の勢力と戦い、決して議論を諦めない人々によって築かれてきた。そういう面倒な議論をしないことには世の中の仕組みも科学技術も、発展しないのである。

議論を戦わせる、異なる意見がぶつかり合うとい事態は本当に疲れる。自分の意見に固執して相手を言い負かすことが議論の目的ではない。本当に何が良いのかを吟味し、多くの意見を改訂していく技がいる。精神的にも体力的にもタフでないとやっていけない。

そのタフさが、どうも日本の文化には十分に備わっていないような気がする。小さな子どもの時から、そういう練習の場が少ないのだ。単なる合議主義ではなくて民主主義になるには、自由に議論を戦わせ、互いの立場を尊重するのが、一丁自一番地である。

( 2020 年11月1日)

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