時代の風~第55回 「自粛」に順応した日本 同調圧力が阻む変化(2022年9月4日)
私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。
「自粛」に順応した日本 同調圧力が阻む変化
新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、いまだに収束の気配はうかがえず、この先の社会がどうなっていくのか、見えないのが現状であろう。
この感染症は、人々が話したり、咳(せき)やくしゃみをしたりするときに出される飛沫(ひまつ)の中に含まれたウイルスが長く空中に漂い、それが他者に吸い込まれることによって伝染する。それをエアロゾル感染と呼ぼうが、空気感染と呼ぼうが、ともかくも、人が集まる場所の換気が、感染予防にもっとも重要な鍵となるようだ。
しかし、これまでの世界の感染症対策は、コレラなどの病原菌がおもな対象で、水や食品の安全確保が課題だった。そのため、部屋の空気の循環は、酸素不足ではない新鮮な空気の供給が主眼であり、感染症対策として視点を置くことは少なかった。多くの人々が集まる場所の換気について、たいした施策もなしに公共空間がつくられてきたことを、いまさらながら認識した次第である。
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さて、それで今回のコロナ対策であるが、中国は極端だとしても、欧米もかなりの部分を法的規制で対処してきた。人々の移動その他の行動を法律で規制する対策である。そうなると、人々の行動が強制的に制限されるので、当然ながら経済活動が阻害される。そのマイナスの効果と、感染拡大のリスクとをどう査定するのか。昨今では、欧米諸国のほとんどは、活動制限を解除した。
この 2 月から、英国ではなんの規制もなくなったし、欧州諸国を旅した人たちの話によると、公共交通機関でのマスク着用など、一部で推奨はされているものの、法的な規制は何もない。一方、我が国ではどうか?日本では、このような緊急事態に対処する法的な措置はない。そこで、すべてが「お願い」ベースで進むことになった。日本人はそれに見事に順応し、法的にはなんの規制もないにもかかわらず、自粛という標語のもとにほとんどの人々が社会的な活動をやめ、多くの行事や祭りが開催されずに今に至っている。
自粛というのは、互いのそんたくと監視のもとで成り立つ行為である。一人一人の個人がどう考え、本当に何をしたいと思っているのかはさまざまだろう。感染防止が十分にできると思えば、パーティーをしてもよいのだ。しかし、誰もが、そのような自分の考えと態度を表明することはせずに、まずは周囲の人々がどう行動しているかを見る。
そうすると、自分は何もせずに周囲をうかがうのが全員のやることなので、見渡せば誰も何も積極的にはしていないのが見える。そこで、周囲はみな何もしなぃ、それが大勢なのだということになって、誰もが自分のしたいことをしなくなる。これが日本での「コロナ対策」なのではないか。
このような自主規制は、法的規制ではなくて、同調圧力によって維持される。これが驚くほどよく働いているのが日本だが、これをどうやって終わらせるのかが問題だ。
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欧米では、個人が自分の希望を表出するのが当然であると考えられている。そのままで野放図になっては困るので、それを抑えるために法律で規制する。人々は、自分のやりたいことは自覚しているのだが、法律で抑制されていた。そこで、法律さえ解除されれば、また自分の意思で勝手に行動することに戻るのである。
しかし、法律による規制ではなくて、周囲の状況を見て互いにそんたくしあう文化による自粛の場合は、どこでどのようにこれをやめるかの基準がないのだ。
みんなが集まってわいわいと騒ぐことには、経済的効果だけでなく、人間のコミュニケーションや社会関係の構築の上で、多大なメリットがある。しかし、そのようなメリットをまったく考慮せず、感染拡大のリスクだけを見るならば、この際、何もしないのが最良の選択になるだろう。
それを、みんなが他者の行動をうかがうことで自粛する、という構図で達成すると、どうやって終わらせることができるのか?たとえそのうち終わらせることができたとしても、それには長い時間がかかることだろう。個人が自分の選択を表明することなく、周囲の状況を見て判断するという仕組みは、コロナ対策に限らず、意思決定のプロセスを迂遠(うえん)にし、変化に機敏に対処することを阻んでいると私は思うのである。
(2022年9月4日 )