2019.10.06
時代の風~第31回 根本的諸概念 転換の時 ノーベル賞の季節に(2019年10月6日)
根本的諸概念 転換の時 ノーベル賞の季節に
暑い毎日がいまだに続くが、もう秋だ。ノーベル賞の季節である。ノーベル賞は、ダイナマイトなどの爆薬を発明して巨万の富を築いた、スウエーデン人のアルフレッド・ノーベルの死後その遺言で作られた。 1901 年に開始され、今日に続く。
最初から設置されていた賞は、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞の 5 分野だ。文学と平和はさておき、物理学、化学、医学などという分類は、いかにも前世紀的に響く。最先端の自然科学の業績をこのような分野に分けることに、今でも意味があるのだろうか? 事実、分野を超えての共同研究が進み年々、各賞の間の違いが不明瞭になってきている。
また、 20 世紀初頭にはまったく考えられなかった技術がいくつも発明され、新しい学問領域も生まれてきた。たとえば、生物の全ゲノム解析などの技術を駆使した研究は、いわゆる「生理学」ではないだろう。では、医学かといえば、医学におさまるものでもない。
ノーベル賞委員会も、昨今の学問の発展を取り入れ、分野をどのように考えるかに腐心している。が、この分類はどうにも古臭い。受賞の形態も問題だ。平和賞を除く 4 分野は、個人が選ばれて 3 人までだ。しかし、科学研究への貢献を、本当に個人の業績に帰することができるのかどうか、それは議論の余地がある。とくに、昨今の自然科学の研究は、何人もの研究者がかかわる大きなプロジエクトであることが多く、研究業績である論文の著者も、今や 5000 人を超えるものまであるのだ。
話は変わり、ノーベル賞のような華麗な問題ではないが、今、大学や研究者の外部評価をどのように行うかで、議論が沸いている。その焦点の一つは、論文の数え方だ。 1 人の研究者が書いた単著の論文がその人一人の業績であるのは同然だ。では 10 人共著の論文はどう数えるべきか?全員が自分の業績として一ずつ数えてもよいのか?それとも各自 10 分の1か?では 5000 人の論文は?
なぜこんなことが議論になるかといえば、そのような評価によって国立大学の運営費交付金の額が左右されるからだ。
ノーベル賞級の業績ともなれば、確かにあの人の考えが大変な進歩につながったねと、大半の人々が納得するものは、現在でも抽出できるのだろう。
だが、ほとんどの科学研究はそんな飛びぬけたものではない。それでも、それらがなければ科学は進まない。ジグソーパズルの一つ一つを埋めるような研究の積み重ねは大事なのだ。そして、飛び抜けた研究をするには何人もがチームでかかわる必要がある。昨年の本欄でも述べたが、科学研究という営みの形態は、 20 世紀の終わりごろから大きく変わってきた。個々の研究者にどれだけの功績を認めるかなどと議論するのは、科学研究の在り方に対する 20 世紀までの古い考えに基づいている気がする。
おそらく自然科学だけではない。あらゆる面で、社会の成り立ちが、急速に大きく変わってきている。世界各国を見れば、まだ貧富の差はあるものの、全体として死亡率は下がり、寿命は延び、先進国では出生率が低く抑えられるようになった。つまり、生態学的に飽和している。どの国も、国が発展するほどに経済成長率は下がっていく。つまり、飽和していくのだ。
このような中で、国連がSDGsという持続可能な社会づくりを目標にかかげ、あらゆる形の貧しさを撲滅しようとうたっている。それは、経済的貧困だけではなく、さまざまな種が絶滅して生物多様が減少していく貧しさ、女性やマイノリティーが活躍の場を持てないという貧しさなどのすべてを包含している。つまり、量から質への転換をめざしている。経済成長を追い求める、従来の資本主義は存続できるのだろうか?
インターネットなどの普及による情報環境の激変は、人々の社会認識の仕方や意見形成の過程、意見交換の方法を劇的に変えた。個人の感想が瞬く間に匿名で世界中に広がるというグローバル化は逆に、人々のセクト主義を鮮明にさせている。これらは自由主義、民主主義という 20 世紀の価値を維持できなくさせるかもしれない。今、実は社会の根本的な諸概念の転換が求められているように思う。
( 2019 年 10 月 6 日)
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