2023.03.09
【プレスリリース】授乳・離乳の社会現象を人類進化の視点から解きほぐす
授乳・離乳の社会現象を人類進化の視点から解きほぐす
蔦谷 匠1, 水島 希2
1総合研究大学院大学, 2叡啓大学
【研究概要】
授乳・離乳は、医学や進化生物学において多くの研究がなされてきた古典的なトピックですが、哺乳類である私たちヒトは母乳によって子供を育てる営みを今も続けており、現代の環境のもとで新たな社会現象も出現しています。たとえば、公共の場での授乳の是非に関する議論、母乳のオンライン取引、母親たちが母乳育児に感じるプレッシャーなどが、そうした社会現象の例です。本研究では、授乳・離乳に関する最近の6つの社会現象をレビューして3つのカテゴリーに分類し、なぜそうした現象が生じるのかを人類進化の視点から考察しました。そして、「あちらを立てればこちらが立たず」というトレードオフの考え方を用いることで、こうした社会現象がよりよく理解でき、さらに、問題解決のためのアプローチも検討できることを示しました。この研究の成果は、私たちヒトの過去を知ることが、ヒトの未来の問題解決につながり得ることを示唆しています。
【研究の背景】
私たちヒトは哺乳類という動物の一種であり、産まれたばかりの子供を母乳(「乳汁」あるいは、ヒトの乳汁を指す「人乳」という表記の方がより包括的かつ正確ですが、ここでは一般に使用されている「母乳」という単語を使用しています)で育てるという生物学的な特徴を持っています。その一方で、現代の授乳・離乳のあり方は、ヒトが発展させた文化や技術によって大きく影響されてもいます。ヒトの授乳・離乳は、このように生物学的な特徴と文化的な特徴の二面性を持ち、医学、生物学、人文社会学の3つの分野で盛んに研究されてきました。授乳による母子の健康上のメリット、離乳年齢と出産間隔の正の相関関係、「乳親族(同じ女性の母乳を摂取した子供同士の婚姻を禁じるイスラムの規定)」など、重要で古くから認識されていたトピックについては多くの研究の蓄積があります。
しかし、急速に変化していく現代社会のなかで、私たちヒトは母乳によって子供を育てる営みを現在進行形で続けており、授乳・離乳に関する新たな社会現象も出現しています。こうした最近の社会現象は医学や人文社会学の観点からはかなり論じられてきましたが、生物学の観点からはほとんど検討されていませんでした。進化が起こってきた長い時間軸を考慮する生物学(人類進化)の視点を応用すれば、授乳・離乳に関する社会現象が「なぜ」生じるのかを理解できる場合があります。
本研究では、授乳・離乳に関する最近の6つの社会現象を3つのカテゴリーに分類し、なぜそうした現象が生じるのかを人類進化の視点から考察しました(図1)。私たちヒトの過去を知ることが、実は、ヒトの未来の問題解決につながり得ることを、この研究の成果は示唆しています。以下に、本研究で議論した社会現象のいくつかを例にあげて説明します。
【社会現象1:公共の場での授乳】
現代社会では、公共の場での授乳が議論を呼ぶことがあります。授乳する人を公共の場から排除することをはっきりと禁じた法律を制定している国(英国やオーストラリアなど)もありますが、それは、そうした排除行為が実際に行なわれていることの裏返しでもあります。言葉や行動の暴力の形を取らずとも、公共の場で授乳することを居心地悪くさせる雰囲気があるだけで、母親は疎外や不安の感情を抱き、母乳育児自体をやめる決断につながり得ることがわかっています。その一方、授乳という営みが社会にきちんと包摂されることを目指し、現実世界やオンライン空間で、自身が授乳する姿を意図的に公共空間に置く活動(ラクティビズム)も行なわれています。日本では、授乳室や授乳服などが整備されていますが、そうした仕組みを利用すれば母親は安心して授乳ができる一方、公共の場から授乳を隠すことで「授乳は隠されるべきものである」という規範をさらに強めてしまうかもしれません。では、ヒトはなぜそもそも「外」でも授乳しなければならないのでしょうか?
公共の場での授乳には霊長類としてのヒトの進化が関わっています。ヒトの授乳は霊長類としての一般的なパターンにしたがい、母親が乳児を連れ歩き、エネルギー密度の低い薄い乳を、頻繁に、数年にわたって飲ませていました。ヒトの授乳パターンは生物学的にある程度決まっており、ほかの哺乳類とは違って、数日で離乳を終わらせたり、母乳の「飲みだめ」をしたりすることができません。ヒトの乳汁は薄く、乳児は数時間でお腹が空いてしまいますし、1日あたり6回以上の頻回授乳をしないと、内分泌ホルモンの働きによって母乳分泌は止まりやすくなります。この形質は現在も変わっていない(数十世代程度では大きな生物学的変化は生じにくい)ため、現代社会で社会的・経済的な活動にも従事する必要のある授乳中の母親は、授乳を継続したいと考えたとき、人類が進化の過程でずっとしていたように、乳児を連れて外出し、数時間おきに授乳する必要が生じます。つまり、進化的に見れば必然とも言える公共の場での授乳が、現代社会では問題となっているわけです。こうした公共の場での授乳に関する議論を引き起こしているものとして、乳房を性的なものとみなす最近の価値観や、女性の主体的な権利を認めないジェンダー差別的な価値観を指摘することができます。
【社会現象2:母乳のオンライン取引】
インターネットや流通網の発達した現代において、母乳はオンラインで取引されています。その形態はさまざまで、搾乳で余った乳がSNSなどを介してほかの母親に提供されたり受け取ったりされるほか、商業ベースで売買される母乳もあります。公的なミルクバンクは以前から存在しましたが、非営利で安全性が保証されている代わりに、利用できる状況が非常に限られていました。インターネットを通じた母乳の取引は、母乳を必要とする乳児に対して、より迅速かつ気軽に母乳を提供できる仕組みとなっています。米国での調査では、母親429人のうち94%が母乳のオンライン取引のことを知っており、12%は提供者になったことがあり、7%は受領者になったことがあると回答したというデータも報告されています。しかしその一方で、インターネットで売買される母乳に病原性バクテリアや牛乳が混入していたり、カフェインやニコチンが検出されたという報告もあります。こうした取引が悪用されると、母親の身体が搾取されたり、本来摂取できたはずの母乳を奪われる乳児が現れたりすることも懸念されます。実際に米国では、人種差別にも関連したそのような問題が2015年に起きています。
母親の体を離れて母乳が取引できる生物学的背景には、ヒトの母乳の交換性の高さがあります。もともとヒトは、女性どうしが互いの子供に授乳しあうような「あげ乳・もらい乳」を頻繁にしていたことがわかっています。現代的な価値観や粉ミルクなどが一般的でない状態にあった世界中の民族集団の調査では、少なくとも208のうち97の社会(47%)に、あげ乳・もらい乳の習慣が存在したことがわかっています。なかには日常的にこれらを行なっている社会もあり、コンゴ盆地の狩猟採集民では生後約4ヶ月までの乳児の6-7割がもらい乳を経験し、日中の授乳時間における15-28%をもらい乳が占めていたという報告もあります。こうした頻繁なあげ乳・もらい乳は霊長類のなかでも珍しく、母親以外のたくさんの個体が関わって共同で子育てをするというヒトの進化的特徴が関係していると考えられています。このヒトの乳の高い交換性の高さが、搾乳器や冷凍運搬技術といったテクノロジーと結びついた結果(図2)、現代社会において母乳のオンライン取引が大きく広がり、その一部が社会問題化する余地が生じたと考えることができます。
【社会現象3:母乳育児へのプレッシャー】
子供を母乳で育てることには母子ともに多くの健康上のメリットがあり、疫学的にも生後6ヶ月間は乳児を母乳のみで育てることが最適条件として推奨されています。しかし、そうした医学的事実が一般にもよく知られるようになり母乳育児が推奨されるようになった一方で、母親が授乳を開始し継続するために必要な公的・準公的サポートはあまり整備されていません。その結果、サポートの欠如のせいで母乳育児がうまくいかなかった場合でも、それを自己責任と感じ、母乳育児の推進に関するメッセージが母親に過剰なプレッシャーを与え、「良い母親」になれなかったと罪悪感を抱かせてしまうような問題が生じています。
このような問題は、哺乳類の母子間の関係を形作ってきた進化的な対立と同じような対立関係が、母親とそのほかの主体とのあいだにあると考えるとうまく理解できます。生物学的には、母親は、子供が十分に大きくなれば可能な限り早く離乳して次の子を妊娠し育てたほうが、進化的なメリットがより大きくなります。その一方、子供は、可能な限り長く授乳を継続してもらったほうが、進化的なメリットはより大きくなります。この母子間の利害関係の対立が原動力となり、生物種や個体ごとに異なる多様な離乳パターンが進化してきました。ヒトの場合、過去には、最適な条件の授乳・離乳パターン(生後6ヶ月間は母乳だけ)にしたがわなければ子供が病気や栄養失調で死んでしまったかもしれません。しかし、医療が発達した現代においては、最適条件にしたがわなくても子供はたいてい健康に育ちます。現代の先進国社会では、母乳育児の健康上のメリットを最大化するために可能な限り最適条件にしたがうことを推奨する医学的なメッセージと、(自分と子供の双方が受けうる)社会的・経済的なメリットを考慮して授乳以外の活動にあてる資源を可能な限り確保しようとする母子のあいだの利害の対立のほうが、ヒトの離乳パターンに大きな影響を及ぼしていると言えるかもしれません。そのような対立関係が、こうした社会問題の原因のひとつになっているかもしれません。ただし、母親の身体に影響を与え得るのは医学的なメッセージだけではありません。人工乳の会社は不正なマーケティングによって授乳を短縮させる反対方向の影響を与えようとする場合がありますし、市場と自己責任を強く擁護する新自由主義(ネオリベラリズム)的な価値観は、母乳での子育てに「失敗」した母親の自信をくじいて、次子以降の母乳育児を諦めさせるような影響を与え得ることも指摘されています。
【トレードオフの観点から解きほぐす】
本研究では、上記のような社会現象が、生物学的なトレードオフの観点からよりよく理解できることも示しました(図3)。トレードオフとは、ある側面にメリットをもたらすことで別な側面にデメリットが生じる「あちらを立てればこちらが立たず」の関係のことです。利用できる資源の量が限られているときにトレードオフが起こることが知られており、これがヒトの授乳にもあてはまります。母乳には母子の外部環境(ウイルスや細菌)に対応した免疫物質や生理活性物質が含まれており、その栄養的・健康的メリットがいまだ人工的に模倣できない唯一無二の物質です。また、母乳の生産や消費には母親の時間や身体的なコストがともなうため、資源量が限られています。母親や母子以外の第三者が、限られた資源である母乳のメリットをできる限り活かそうとすると、母親の社会的・経済的活動の制限や悪用の危険性など、別な側面に無理がたたって社会問題が起こることがあります。さりとて授乳することを諦めて別な側面を優先させると、今度は母子の健康問題が生じる場合があります。利用できる資源の量がもはや増やせない場合、進化生物学の理論からは、母乳のメリットを優先することで損なわれる側面に対する補償を手厚くするのが有効であると言えます。それはたとえば、給付金のある育児休業を充実させたり、完璧さを求める「良い母親」像を脱構築したりすることであるかもしれません。
【人類進化の視点の意義】
生物としてのヒトの本来の特徴がそうであるからといって、現代に生きる私たちもそうしなければならないわけでは決してありません(この誤りは「自然主義の誤謬」と呼ばれます)。新たなテクノロジーや価値観が人間をより自由にするならそのほうが良いに決まっています。では、それでもヒトの生物学側面や進化を人類学的に研究することにはどのような意義があるのでしょうか? それは、私たちが当たり前と思っていることを相対化し、新たな視点から考えてみる機会を与えられる点にあります。私たちは、生物の進化が起こる時間に比べて圧倒的に短い一生しか経験できず、その一生で感じたことを唯一の事実として当然視しがちです。しかし、ヒトが進化してきた膨大な時間の長さを考えれば、異なる「当たり前」も過去には存在していました。何百世代もの膨大な時間のすえに形作られた私たちヒトの心身に存在する生物学的な制約を知ることは、実は、現代に生きる私たちの考えをより自由にすることでもあるかもしれません。
著者
- 蔦谷 匠(総合研究大学院大学 統合進化科学研究センター 助教、コペンハーゲン大学 Globe Institute 日本学術振興会海外特別研究員RRA)
- 水島 希(叡啓大学 ソーシャルシステムデザイン学部 准教授)
論文情報
- 論文タイトル:Evolutionary biological perspectives on current social issues of breastfeeding and weaning
- 掲載誌:Yearbook of Biological Anthropology
【連絡先】
- 研究内容に関すること
蔦谷 匠(総合研究大学院大学 統合進化科学研究センター 助教)
電子メール:[email protected] - 報道担当
総合研究大学院大学総合企画課 広報社会連携係
電子メール:[email protected]