2018.04.18
平成30年度春季入学式 学長式辞 【4月10日】
研究の楽しさと責任について
春は、送り出しと迎え入れの季節です。つい先日、3月23日には本学の学位授与式を行い、53名の新しい博士号取得者を送り出しました。本日は、これから博士号のための研究を始めようとされるみなさんをお迎えする日です。今日は76人の新入生を迎えることになりました。総研大へのご入学、まことにおめでとうございます。
今、みなさんは新しい出発点に立っています。これからの5年間、または3年間を研究と論文執筆に専念するということは、前途多難なことではありますが、また、楽しい期待に満ちたものでもあります。研究とは、自らの手法によって何かを明らかにしたいという好奇心のもと、これまでは誰にも知られていなかった知識をつけ加える作業です。これを実行するには、さまざまな困難がつきまといます。そう簡単に自分の手で新しい知識をつけ加えることはできません。しかし、これは大変楽しい作業です。研究者は研究をしたくて研究者になっているのであり、困難に直面することも含め、研究の過程をつねに楽しいと思うものです。
1950年代から60年代にかけて、DNAの構造解明がさかんに研究されていたころ、DNAの結晶のX線回折の研究で大いなる業績をあげた、ロザリンド・フランクリンという女性研究者がいます。ロンドン大学キングズ・カレッジで研究しており、DNAの構造解明でノーベル賞を受賞したワトソンとクリックの手ごわいライバルでした。彼女は結局、がんで早逝してしまいますので、大きな功績はあったものの、ノーベル賞には至りませんでした。その彼女は、「こんなに楽しいことをしていながら、お給料がもらえているなんて、あまり大きな声では言えないわね」と友人にささやいたと伝えられています。同じようなことは、他のノーベル賞受賞者である女性研究者についても記録されています(もっとも、男性の研究者が、同じようなことを言ったという記録は、私は知りませんが!)。
私は、この言葉というか、このようなことを言うことになる背景について、しばしば考えてきました。研究者が楽しいことをして給料をもらうのは、それほど後ろめたいことなのでしょうか? このような発言が出てくる背景には、他の職業についているたいていの人々にとっては、仕事はこれほど楽しいものではないだろうという仮定があります。それはそうかもしれませんが、世の中に数ある職業のそれぞれについて、人々がそれなりに一生懸命働いて、その作業に喜びを感じていることも確かだと思います。
それはそうだとしても、後ろめたさを感じさせるほどの楽しさ、決して遊んでいるわけではないのに、わくわく興奮させる何かが研究にはあります。私は、これからみなさんに、そんなわくわくする興奮を感じながら研究に没頭していただきたいと思います。誰に強制されたわけでもなく、研究したいという欲求によってここに来たみなさんですから、研究を存分に楽しんでください。
若い研究者を取り巻く環境は、私たちが若かった時代とは激変しました。昔も、博士号を取得したからといって、安泰な将来が保障されていたわけではありません。私は東大理学部の出身で、理学系大学院の人類学専攻に進学しましたが、先輩の中には、博士号取得後何年も職が見つからず、アルバイトをしながら研究室で寝泊まりしていた人たちが何人もいました。
が、最近はさらに状況が厳しくなり、若い研究者は、数年という短い期間で何らかの成果を出さねば次が続かないようになってきました。そうなると、短期間で成果が見込める、安全な研究題目ばかりが選ばれることになります。そうすると、研究全体の活性が低くなり、本当におもしろい、重要だけれども難しい研究には、若い人々が誰も挑戦しなくなります。
今、確かにそのような状況になってきていると感じ、危惧しています。みんなが数年先の状態を恐れ、手堅い研究ばかりを選ぶ雰囲気があり、これではよくないと感じています。でも、総研大は学部を持たない大学院だけの大学ですから、今、ここに入学されたみなさんは、それぞれ、出身の学部を離れてここに来ることを選んだ人々です。そのような方々は、一般的な院生の平均に比べると、場所を変えて新たな分野に挑戦する気概を持った方々だと信じています。どうぞ、その気概を忘れず、新たな分野に挑戦して、そのことを思う存分楽しんでください。指導教員になられる先生方も、手堅く論文が書けることのみならず、大きな視野の中で院生たちが研究できるような、そんな環境を作ってくださることを切に望みます。
一方、こんなに楽しい研究をするために、公的な資金をもらっているということの責任はどうなのでしょうか? 総研大は、一流の研究者となる次世代を育てることが大学のミッションですから、みなさんが一流の研究者となる機会にさらされるよう、いろいろなサポートを行っています。そして、総研大は国立大学法人ですから、その資金はおもに国民の税金によって賄われています。ですから、もちろん、私たちの責任はかなり大きなものです。楽しく研究に従事して、結局は成果が何もなかったというのでは、社会に対して説明責任が果たせません。
では、成果とは何でしょうか? 今は、何でも評価の時代です。内部評価、外部評価、数値目標の指標による達成度の評価と、みなさんの研究成果も、広く研究所や大学のパフォーマンスの評価の一部として組み込まれていきます。しかし、みなさんがこれから達成するであろうことの内容を、社会に対する直接的な還元があるもの、というように狭く限定する必要もなければ、何かの賞を取るような大きな成果でなければならないと、狭いハードルを高く考える必要もないと思います。私は、みなさんがこれからの研究生活で身に付ける重要なものは、もっと広い意味での深さだと思っています。
過去から現在に至るまでの先行研究を俯瞰し、そこには何が欠けているのかを見抜く能力、ある特定の現象を究明するために測定するべきパラメータを抽出する能力、それを実際に測定できるようにする能力、そうして得られた結果をまとめ、それをまた俯瞰して、大きな結論を導き、将来の研究の方向を呈示する能力。理系であれ、文系であれ、どんな研究分野であれ、みなさんがこれから行うことを抽象的に書けばこのようになるのだと思います。みなさんが、数年後に博士号を取得されるときに身につけておられるであろう能力は、このようなものだと思います。目先の研究結果ではなく、数年後に、みなさんがこのような能力を培ったことを誇れるように、これからの研究生活を送ってください。
日本では、なぜか、博士号を取得したということが、一般的な意味で大きな付加価値をつけ加えた人材というようには、まだまだ見られていないように思います。研究者の世界では、博士号は運転免許のようなもので、単なる出発点です。それはそうなのですが、研究者以外の道となると、企業は、博士号取得者は視野がせまく、企業にとって使いにくいと言います。日本の官公庁や初等中等教育の分野での博士号取得者の割合は、世界的に見て非常に低いです。なぜでしょう? 私は、これには博士人材育成の過程と社会の側との双方に原因があり、そこにミスマッチが起こっているのだと思います。
博士人材育成の場においては、ある特定の研究題目を研究することにのみ達成目標が置かれていて、先に私が述べたような、全体を把握して研究を俯瞰する能力のような、メタな力の養成があまり自覚されていないように思います。もちろん、ある特定の研究を行っていれば、自ずとそのような能力は身についているはずなのですが、そのことの重要性が自覚されていない。また、社会の方も、博士号取得者を、特定課題の狭い専門家くらいにしか見ていないので、博士号取得者を十分に活用しようという心構えに欠けているのだと思います。かくして日本は、知識基盤社会と言われはするものの、博士人材を尊重することにも活用することにも、遅れているのではないでしょうか?
今日、総研大に入学されたみなさんには、是非当面の研究目標の達成のみならず、もう一歩うしろにひいて考えたとき、これから自分はどんな能力を培っていけるのかについて、自覚しながら研究していっていただきたいと思います。目先の利益にとらわれず、大きな視野の中で、何がもっとも面白い問題なのかを知り、それに挑戦していく技量を身につけてください。
研究とは本当におもしろいものです。ロザリンド・フランクリンが後ろめたいと思ったほどにまで、おもしろいものであり、皆さん一人一人にとって、これからもずっとそのようにおもしろいものであって欲しいと望みます。そして、この世の中にあって、こんなにおもしろいことを追究していける立場にあるとはどんなことなのか、つねに自省する社会的な存在であっていただきたいと思います。皆さんが、これから素晴らしい博士論文研究を遂行できますよう、お祈りいたします。その門出を祝して、本日は、本当におめでとうございます。
2018年4月10日
総合研究大学院大学長 長谷川 眞理子